日々思うこと。

マイノリティー から見える世界

住みたい場所の前提として。

今週のお題「住みたい場所」

 

どう求められたいか?の中にどうなりたいか?はある。結局、自分を取り囲む人にどうされたいか?
そのために自分の能力を発揮していくし、そのためにどうなりたいか?はある。
それが自分から近いのが家庭だったり仕事だったりする


ただ、自分に近いものほど時間に制限があったり、人が限定されてしまうので、してほしい相手にできない場合があり難しく、相手が求めるものには完璧にはなれないし、自分も相手にできなくてもより高いものを求めてしまう。
だから、そういう場所とは違う場所で、つまり相手が違うかったらお互いに気楽に手放せる場所で、自分が必要としたりされたりすることを体験することで自分を満たしている。


だけど、注意しないといけないのは、相手が自分と同じ立ち位置ではないこと。
同じ環境ではないから、踏み込むことはできない。
その場所だって、順位がついている。


だから、お互いに認め合いすぎると難しい。
思っていたより近づきすぎる。
それは幻滅になる。
それは本当は家族でも仕事でも同じことなんだろう。
我慢するしかなかった時代のほうがほとんどだろう。
その代わりに地域がゆるく繋がっていた気がする。
今は、家族や職場より個人が軸になっている気がする。


だから、求めるのを限定するのではなく、多様に広がりを持たせると楽になる。


そういうことができる技術がある時代になったなぁと感じる。
そうなると今度は広がりすぎて、収拾がつかなくなる。
時間をかけて、地域限定の他では通用しない慣習を知っていくのではなく、ルールが先に必要になってくる。
それを人同士で、時間をかけて、自分で、したい気持ちのアクセルと我慢するブレーキをつけて、どう緩めていくかのような気がする。

 

そこに住みたい場所はあるような気がする。

個性

個性を認めることができるのは家族。

分かり合おうとする努力ができるのが家族。

そのために一緒にいる時間がたくさんある。

 

勉強は個性とは違う。

先人の結晶を伝えていただくところ。

そこに自分の考えた知恵を加味して後世に伝えられる人はごく僅か。

自分を削る場所。

声の大きいことがいいこと?

声が大きいということには理由があると思うのです。

危険なとき、遠くにいるとき、声を出す側の配慮の一つです。

 

確かに小さい声から大きい声にするのは限界があるのかもしれません。

でも、だからといって、どんなときも大きい声がいいのかと言われたら違うと思うのです。

 

必要なときに必要な音量。

聞こえないときは聞こえないことを近くに言って伝えてもいいと思います。

 

どっちがいいかではなく、どちらもいいのです。その場その場で変わると思います。f:id:vdonguri:20210614025837j:image